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イタリア巡り

成田出発

 今年2回目の欧州旅行をイタリアに決めて、色々比較したが今回は初めて日本旅行にしてみた。 出発1ヶ月前になっても帰国便が決まらない。 計画にある直行便がとれない由。 JALがイタリア便を止めた影響だろうが、ちょっとお粗末で心配だった。
 成田で団体受付で添乗員と顔を合わせた。波多江さんと言うかなりの年配だが、ベテランで安心感がありそうだ.
成田発が正午過ぎで本州を横断して新潟から日本海へ。シベリアの上空を飛ぶがイギリス、オランダに行ったときより少し南寄りの感じで飛行、圧巻はアルプスの眺めだった。 午後の光を反射する白雪に覆われた6千M級の山々が続き、とても素敵な旅の始まりになった。
<<ミラノ>>
 ミラノ到着でスーツケースのキャスター部分が壊れたことに気が付き、添乗員とアリタリアの窓口で証明書を発行してもらう。何とかこの旅行中は凌いでくれることを願ってホテルへ。 夕方着で、少し空腹感があったため、持参の乾燥お粥と即席味噌汁をお湯で戻して食べて12時就寝。時差はあまり感じず熟睡できた。 
翌日午前中はスカラ座をちらっと見てアーケードへ。 140年前に造られたとは思えないほど大規模で美しかった。 中の商店街もPRADAやYSLなどの一流ブランドショップが並ぶ。 真ん中のドームはとてもきれいだ。 このアーケードを出るとすぐ、きれいな肌色で巨大な大理石作りのドゥオーモが目前に現れる。ドゥオーモとその前の広場は名実ともにミラノの中心になっている。 このドゥオーモの屋上までエレベータと徒歩で登ることができた。 ゴシック建築の150本以上ある尖塔とその上の彫像が見事で最高部には金色のマリア像が下界を見守るように立っている。 屋上から見た広場は観光客で溢れ活気があった。何しろ巨大で総大理石作りで14世紀後半から完成まで500年かかったとは息の長い話だ。(スペインのサグラダファミリアもいまだ建築中で、欧州人は気が長い)
昼食には本場のパスタでお腹一杯になった。 夕方に予約が取れたサンタ・マリア・デレ・グラッツエ教会へ行き有名な「最後の晩餐」を見学。教会の食堂だった場所の壁一杯に描かれた名画はとても迫力があって、その強烈な印象を表現する最適な言葉が見当たらない。 「イエスの左隣のヨハネは女性のようで、マグダラのマリアと言う説もあるようだが、昔は男性でも女性のような描き方もする」と言うなど、現地の日本人ガイドさんの説明も素晴らしかった。
夕食はミラノで有名なカツレツとリゾット。 カツレツは薄つくりで美味しかった、リゾットは現地風のちょっと固めで芯の残った料理法だったが美味しく頂いた。
<<ヴェネツィア>>
3日目はバスでヴェネツィアへ向かう。途中「ロミオとジュリエット」の舞台で有名なヴェローナの近郊を通過してヴェネツィアのローマ広場で水上TAXIに乗り換えリアルト橋近くの桟橋で下船。我々は島内は徒歩での移動。
宿に荷物を置いてからサンマルコ広場へ。 世界各地からの観光客で広場はごったがえしていた。 ヴェネツィアは人工島で浅瀬に松の杭を無数に打った上に石板を敷いて建物を建てて行った由。独立した都市国家を確立するためと言うことだがこれまた気が遠くなるような壮大な話だ。だから1000年以上たった今ドゥカーレ宮殿の床も大きく波打っていたり階段もゆがんでいて、歩きにくいほどだ。 いずれ沈むのではと不安を誘う。
午後は有名なゴンドラに乗る。 このツアーでは3艙だったがカンツォーネ付きは1艙のみ。我が連れ合いが見事くじを引き当ててもう一組と4人で30分程の歌声を満喫しながらのゴンドラ周遊はとても良い記念になった。
その夜、何やら不穏なサイレンがしばし鳴ったが、快い旅の疲れですぐに熟睡。 翌朝波止場に向かうと海水面が道路のすぐ真下に。そして高さ50CMくらいの渡り廊下のような板が道路に設置されている。 あのサイレンは異常潮位で水があふれる警報だった(添乗員談)由。 我々はラッキーだったと言う訳でほっと一息。

ピサ~フィレンツェ

今度は一路西南西への進路。 約300KM余りを波多江さんのうんちくを子守唄に、居眠りしながらピサへ。
観光バスの駐車場からはシャトルバスだ。 波多江さんの機転で大きな団体がのそのそしている間にさっさと乗り込む。
この寺院は意外と広い。 斜塔が有名だが、ドゥオーモもかなり大きいし、洗礼堂も立派だ。 またまた事情通の波多江さんが斜塔の入場券をランチ後の良い時間帯に取れるようにしてくれた。
30分に50人くらいで入れ替わり入場にしてこの斜塔の負担を軽くしている。 最下部から300段ほど随分すり減った階段を上ると鐘のある最上部に出る。 そこからの眺めは中々のものだ。 ドゥオーモや洗礼堂が間近に見える。 真下を見ると沢山の観光客が上を見上げている。 また遠くの田園風景ものんびりして気が休まる。
洗礼堂ではそのドーム状の造りからエコー作用があるため、毎時女性がヨーデルのようなメロディーを真ん中で歌うと一人なのにきれいなハーモニーを奏でる。不思議で吸い込まれるような感じがした。
ピサを後にしていよいよフィレンツェへ。
 バスはフィレンツェ近くで大きく右回りをして、南側高台の「ミケランジェロ広場」へ。 ここから見たドゥオーモを中心とするフィレンツェの街並がアルノ川を挟んで望め、夕方の柔らかい陽に映えて静かで美しい。
ホテルにチェックインしてからサバティーニで夕食。 前菜からドルチェまで中々美味しかった。
翌日、アルノ川にかかるベッキオ橋を見てウフィッツイ美術館へ。 かなり大きくて一部しか見ることが出来なかったが、ラファエロの「ヒワの聖母」、ダヴィンチの「受胎告知」、ボッティチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」など短い時間内だったが有名な素晴らしい絵の連続で大いに堪能できた。その後500Mと離れていないドゥオーモへ。
  フィレンツェのドゥオーモはミラノと比べても大きいが、広場が狭いので、全体が見渡しにくい。 商店街がすぐそばま迫っていて大勢の観光客でごった返しているいてかえって親近感がある。自由時間に波多江さんに教えて貰った横町のジェラート屋に立ち寄ったところシャッターが下りている。 同じツアー仲間と「どうしようか」と言っていたrガラっとシャッターが開いて親切そうなおばさんが「ボンジョルノ」と迎えてくれた。 ピスタチオを求めておいしく頂く。この辺の雰囲気は浅草雷門+渋谷と言ったところか。 教会前の庶民的な門前町風である。
午後はユーロスターでナポリへ行くので、フィレンツェ駅へ。 日本の駅と違って改札口がない。 切符を買ってそのまま誰のチェックもなく列車に乗り込む。結局ローマまでは社内検札もなく、ナポリ直前で一回だけあった。
やはり”That‘s Italy”で大体がおおまか。 座席指定だがどれもいいかげんで僕らの座席にも紳士然として人が座っていて波多江さんの指摘に素直に席を代わって行った。まあ、良く言えばおおらか、でもいい加減な人たち。ローマでお隣の長身の女性が降りた後に妙におどおど風の男性が座って「ナポリ?」と聞くから「Yes,this is for Napori」と答えると数分あとにまた{Napori?」と言う。うるさいので、{Yes」とだけ言ってそのままにしておいたら、何やらそわそわして別の車両に移って行った。ちょっと怪しげな男だった。
<<ナポリ、カプリ島、ポンペイ>>
夕刻、ナポリ駅に到着。 小さめのバスに乗って古い城やナポリ王国時代の王宮を見る。 この車窓観光は頂けない。 割合ゆっくりしたこのツアーでもこういうことがあるのは旅程上まあ仕方がないのだろう。 
一泊後港からカプリ島へフェリーで向かう。 乗客200名程度の高速船で観光客で満杯だ。 日本人のおばさん団体が余り英語ができないらしく向かい側のアメリカ人らしい婦人たちと身振り手振りで持っているBAGを見せ合ったりして楽しそうにやっているのが微笑ましかった。どこもおばさん達は元気いっぱいだ。
島に到着してすぐ、「青の洞窟は波が高くて無理」と情報が入る。 手回し良く小型のモーターボートを手配して我々のツアー14名借り切りで島めぐりへ。 足がすっと長くイケメンの運転手が岸からさっとボートに乗り移り、ご婦人がたの乗船に自然に手を貸す、慣れたものだし板についている。 日本人女性がなびきそうなのも少しはわかる。
はっきりした陽光と白っぽい建物、岩と木々の緑、日本では会えない風景ー風光明媚とはこのことかーだった。 青の洞窟は残念だったが、それを想像させるようなきれいな青い水面を見ることはできた。 ランチは雰囲気のあるリゾート地のレストランでパスタそのものは美味しかったがサービスが乱暴。日本人の団体を次々と受けていて団体ずれの悪い感じがあるのは仕方ないのか。 自由時間にお土産を買って帰りのフェリーへ。 ベスビオス火山がとてもきれいに見える。
<<ポンペイ>>
小高いなだらかな丘陵に広がっていた。 想像より断然広い。 水道、石畳の道路、色々陳列した台などあるお店、サウナもある公衆浴場、焼き窯を備えたパン屋、おまけに売春宿まで。これらが2000年前に既に整備されていたとは本当に驚きだ。ポンペイがこうなら、その頃のローマは推して知るべし。 日本が原始時代だった時分の話である。
ベスビオス山も噴火当時の高さが2倍以上ある急峻な山だった由だが、今はなだらかで穏やかな山容でポンペイを見降ろしている。 いくつもの犠牲者の石膏像が哀れを誘う。時間の余裕があればナポリの王立博物館でポンペイの遺品の数々を見たかった。 ナポリに帰って、夜景を見たが、大したことはない。 夕食は発祥の地で有名なマルゲリータピザ、1時間半とかなり待ったが味は良かった。(ナポリでは待つことは日常茶飯事でイライラは禁物らしい)
<<ローマ>>
いよいよこの旅の最終目的地ローマへバスで向かう。 バスはこの日早くローマからナポリまでやってきた由。 結構な年配の運ちゃんだったが親切そうだ。昼食はローマの軽食「サルティンボッカ」でパンとハム+スープで程よいランチだ。
その後、コロッセオへ。 在ローマ日本人女性ガイドが詳しく説明してくれる。 コロッセオは6万人収容だからかなり大きい。 後楽園球場大のものが2000年前に出来ていたと言うこと。 ここで剣闘士たちが命をかけて戦ったり、ライオンと素手で相対したり、随分残酷な場でもあったようだが、その規模には驚ろかせられる。古代ローマでは異端だったキリスト教信者たちも犠牲になった由で、キリスト教が国教になってからは受難の場なので、随分破壊されたが途中で遺跡としての価値の重要さを認めたため残った由。 その近くの「チルコマッシモ」なる競技場は30万人収容で古代戦車レース(ベン・ハーでおなじみの)が行われたところで今復元作業が始まっているとのこと。 但しイタリアだからいつ終わるか判らない、今も誰も作業しているようには見えないし。 コロッセオ前でツアーでは珍しく集合写真を撮ってくれた。 記念だから求めたが18ユーロとは2000円ほどでちょっと高めか。その後これも有名な真実の口(元は井戸の蓋らしい)に30分ほど行列して手を突っ込んで記念写真。その後、観光客でごったがえしているトレビの泉で後ろ向きでコイン投げ、またまたジェラートを食べてからスペイン広場へー観光客おきまりのコースだが結構楽しい。「ローマの休日」で有名な場所とあって、階段は人人人で溢れているが皆嬉しそう、楽しそうだから雰囲気が柔らかく軽い。最上段で写真を撮ろうとしていたら、中年の新郎新婦が現れて記念写真。 良い雰囲気である。
しばし歩いて観光バスのたまり場へ、10分ほど待って我々のバスが現れ有名なヴェネト通りに程近くボルゲ-ゼ公園そばのNHヴィットリオヴェネトホテルへ。しばし休憩の後、カンツォーネ付きのレストラン「ダ・パンクラッツィオ」へ。ここは遺跡を生かしたお店と言えば素晴らしいがシーザーが暗殺された場所と聞くと何やらなまぐさくてディナーにそぐわない、が2人のカンツォーネ歌い手がムードを盛り上げてくれてとても楽しい夕食となった。我々も歌い手のリードで一節づつ歌わされ、ワインの酔いも加わって賑やかにお開きとなった。
<<バチカンー帰国>>
モーニングコール6:15、朝食はバフェ(バイキング)で毎日しっかりと摂るのは日本人だが波多江さんは毎日軽めのようだ。8:30ごろバスでバチカンまで行くと既に観光客がバチカンの高い塀沿いに長蛇の列だ。これじゃ入るのに大変だなと思ったら団体予約専用入り口があって、すっと入国できた。入った所の中庭では案内板が何セットもあってガイドが団体客に一所懸命説明している。我々のガイドも懇切丁寧に30分もかけて最後の審判など説明してくれた。それはシスティナ礼拝堂では大声禁止でガイド説明が出来ないからの由。礼拝堂は長方形の大きな部屋で天井には同じミケランジェロの「天地創造」が、壁面に「最後の審判」が描かれている。天地創造が4年、最後の審判が7年かかったと言うことで想像を超える気の長い仕事だ。それに逞しいキリスト、多くの裸体など当時のキリスト教の考え方からすると彼の破天荒な仕事ぶりに驚嘆する。天井の絵をちょっと見るだけでも首が疲れるのに4年間もかけて巨大な絵を完成させた彼の粘着力もすごいものだ。また彼自身は画家ではなく彫刻家としての自負が強かったようだから尚更すごい。ラファエロの間ではこれまた有名な「アテネの学堂」を見る。ここは撮影OKだった。プラトンとアリストテレスのモデルがダ・ヴィンチとミケランジェロだったとは面白いが、その二人が仲が悪かったのも有名な話らしい。その後サン・ピエトロ大聖堂前の広場に出る。この広場の直径が240Mもあるし、そこからの参道がこれまた広い。ムッソリーニが強権で何列かの家並みを取り壊して広くした由、おかげで30万人が収容できるスペースになったとは彼も悪役ばかりではないようだ。
昼食は久々に和食だった。確かに和食ではあったが形はそうでもちょっと違和感があった。まあまあと言った所か。
午後は自由時間。 スペイン広場からガイドブックにある「アウトレット」へ、これがビルの1階の何やら怪しげな事務所風の店だった。 色々見たが手頃なBagを見つけて求める。 その後かなり歩いて、バルベリーニ美術館へ。 ここは宗教画主体だったが中々見ごたえのある絵が多く流石はカトリック大本山だ。 ここで日本人は全然見かけなかった。ホテルに戻って一休み。 夕食は久々に中華にしようかと思ったが、店の前に行くとまだ鎧戸が閉まっている。多分7:30には開くと思ったが、他の店でも良いとヴェネト通りへ出る。 カフェ・ヴェネトと言う広めの舗道上のCasualな店を見たが一人40ユーロ以上でカフェとは言えない。 まあ、東京では銀座だから仕方ないか。 目当ての中華料理屋の前にTakeOutのPizzaをやっている店を発見、「これで良いや」と6切ればかりとコーラを買ってホテルに戻る。 食べてみると誠においしい。今回のツアー最後の夕食は超安上がりだったが美味しくて満足。
帰りはミラノ経由となり翌朝4時起きだったが、そう辛くもなく無事ミラノ経由で懐かしの日本へと飛び立った。
イタリアはまだまだ見る所はいくらでもありそうだ。 また、全体に明るい雰囲気でリラックスでき、居心地が良いのでまた行きたい国である。 楽しい10日間だった。
                              注:写真で赤いとぐろは「消火栓」のマークで直観的 

ベネルクス3国

2011年4月中旬、オランダのチューリップの季節に合わせて、ベネルクス3国を訪問した。
14日に出発したのだが、翌日アイスランドで火山の爆発があって欧州の主な空港は全面閉鎖となった。  帰途も、前日からやっと空港がオープンとなり、結果的には予定通りの旅となった。  添乗員の「皆さんは本当にラッキー」の言葉に真実味がある、幸運で忘れがたい海外旅行となりました。

 

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成田を13:30出発のKLM機でアムステルダムへ。  途中で眼下を見ると一面真っ白で凍りついたシベリアの風景が広がっていた。 ほぼ定刻でスキポール空港へ到着。 入国審査は、日本からのツアー客対象の感じで「コンニチハ」とにっこり顔の女性係員。
オランダの初印象は上々だ。 空港敷地内のエアポートヒルトンにチェックイン。 11時間のフライトの後だから到着後すぐ休めるのは好都合だ。  時差もそれほど感じなくて、シャワーのあと、すぐ眠れる。
翌日は早めに発って、風車とチーズ工場のある、ザーンセスカンスへ。 風車は意外に大きく、存在感がある。 穀物の粉を挽く歯車は木製でがっしりした感じであり、胎内に機構を持ち立ち並ぶ様はドンキホーテではないが、意思を持った怪物という雰囲気もある。 観光用のチーズ工場で試食したスモークチーズはとても濃厚なのにしつこくなく、土産にいくつも買ってしまった。
午後は「ゴッホ美術館」へ。 「ひまわり」などの有名な絵もあったが、初期の落ち着いた色調の絵も中々印象深い。 そのあと、アンネフランクの隠れ家へ。 狭い密閉空間で2年間も隠れ住んで、密告で収容所へ、間もなく殆どが伝染病か処刑で亡くなったとのこと。 合掌。

キンデルダイク

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アムステルダムから1時間ほどで、キューケンホフ公園へ。 1週間前はまだTULIPが咲いていないとのことだったが、行ってみたら大体7分咲きくらいで十分鑑賞に堪える景色だった。ずいぶん広くて、観光バスが50台くらい来ていたが公園内は十分広くてゆっくり見て回れた。 公園内の花々も良かったが、外に広がるTULIP畑も延々と続いていて見事だった。 館内にはレストランがあるが、MENUはシンプルそのもの、それでも向こうの人々は嬉しそうで和やかな雰囲気一杯だった。
その後、ハーグへ、マウリッツハウス王宮美術館ではフェルメールの傑作「真珠の耳飾りの少女」の本物をじっくり見ることができました。 ターバンの印象的な青や唇や目の鮮やかさ、やはり本物は素晴らしかったです。

その後、キンデルダイクの風車と運河クルーズへ。  ここの風車は運河の水を上げ下げして調節する役目だったそうで、前日の粉ひき用風車とは趣きが違って、地味だが力強い感じだ。

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3日目はアントワープに泊まる。 翌日ノートルダム大聖堂で、」ルーベンス作の「キリストの降架」を鑑賞する。 大作で迫力があった。
バスでブリュッセルへ移動、グランプラス(大広場)へ。 近くの小便小僧を見る。 小僧さんの衣装が日本を含む全世界から100着以上そろっているとのことで、さすが有名なだけあるが、ふ~ん物好きも多いなとも思う。 グランプラス近辺を散策。